朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
ナショナル・アイデンティティ 2023.07エッセイ・リストbacknext

ミラン・クンデラ
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 Milan Kunderaが亡くなった。日本のメディアもこのチェコ出身の作家の死を大きく報じたが、一様にUne insoutenable légèreté de l’être『存在の耐えられない軽さ』を代表作とする小説家として扱った。むろん間違いではないし、その文学的な業績の豊かさはこの先長らく話題になるだろう。それを認めた上でいうのだが、フィガロ紙は訃報に並べて、彼の思想家としての発言に注目し、証拠として、過去の書評二つを再掲載する力の入れようを見せた。共通のテーマは、identité nationale 「ナショナル・アイデンティティ」である。
 思えば、上記の小説にしても、まず本来の母語チェコ語で1982年に執筆されたのに、1984年にパリで出た仏訳版によってはじめて盛名を勝ちとるにいたったのだった。さらにいえば、クンデラはそれより先1979年にチェコスロヴァキア政府から市民権を剥奪され、フランスに亡命して1981年にフランスの国籍を取得しなければならなかった。彼の作品はフランス文学史に名を残したけれど、前半期の作品はチェコ語の仏訳(むろん原作者の校閲を経て。それに、後年は直接フランス語で書くようになったのだが)でしかなかったことを銘記すべきだ。さいわい晩年にはチェコの市民権を回復できたが、日々を送るにあたって国民意識、国語意識を噛みしめずにはいられなかったことは察しがつく。ナショナル・アイデンティティは彼にとって文字通り死活問題であったのだ。
 ところが、目を日本に転じてみよう。この島国に住んでいるのはとかく単一の民族ばかりと思いがちな人たちで、アイデンティティを意識することは稀だ。たとえば、いま話題のマイナンバー・カードを例にあげよう。あれはまぎれもないcarte d’identité「アイデンティティ・カード;身分証明書」であるにもかかわらず、「返納」する人たちが出てくるのはどうしたことか?手続きをした役所に対する不信が強く、抗議の意思表示をするつもりなのかもしれないが、それを返したところで、その後、どうやって自分のアイデンティティを証明できるというのか。
 ましてや、ナショナル・アイデンティティとなると、国境を出ることのない日本人はこれを意識する機会に恵まれず、まことに不用意で、それに見合う訳語がなく、英語のカタカナ表記に頼る以外にない。今回は、国際関係を抜きには生きられない21世紀の人間として、この状態がどれほど異常で、また迂闊なことか、それを思い知らせてくれた二つの事件を紹介しようと思う。
 一つはウクライナ戦争にかかわる。3月23日付のル・モンド紙から引く。
 Les autorités russes enlèvent, retiennent et « rééduquent » des milliers d’enfants ukrainiens pris dans la tourmente de la guerre. Au terme du processus, une partie des enfants se voient délivrer la citoyenneté russe et sont placés dans des familles d’accueil russes. Ces actes, considérés dans leur ensemble, constituent un « crime de guerre », a affirmé une commission d’enquête de l’ONU jeudi 16 mars.
 「ロシア政府は戦争のドサクサ紛れに数千にのぼるウクライナ人の子供を誘拐し、拘束し、<再教育>している。教育課程が終わると、子供たちの一部はロシア人の市民権を与えられ、準備のできたロシア人家庭に受け入れられる。こうした行為は全体として、<戦争犯罪>を構成する、と、3月16日(木)、国連調査委員会は確言した」
 Un réseau d’au moins 40 camps à travers tout le pays est utilisé pour la « rééducation patriotique » des jeunes victimes, où doivent leur être inculqués l’amour de la Russie et la détestation du monde occidental, selon les résultats d’une enquête publiée au mois de février par l’Observatoire des conflits, un groupe de chercheurs de l’université Yale, aux Etats-Unis. Cette étude a établi qu’au moins 6 000 mineurs ukrainiens vivaient depuis des semaines, voire des mois, dans ces camps, coupés de leurs parents.
 「年少の犠牲者たちの<愛国的な再教育>には、ロシア全土に展開した少なくとも40箇所のキャンプ網があり、そこでは、アメリカ、エール大学の研究者グループの紛争監視所が2月に公表した調査結果によると、子供たちにロシアへの愛国心と西欧に対する憎悪とが叩きこまれることになっている。この研究は、少なくとも6千人の未成年者が親元から引き離されて、数週間、さらには数か月にわたって暮らしていることを立証した」
 今日の日本人にはピンとこないだろうが、わたしのような年配者は幼い頃受けた愛国教育を思い起こす。米英は鬼畜であり、わたしたちは子供ながらに竹鎗で刺し殺すことこそ使命であると教えられた。終戦の詔勅を聞いたあと、小学校(あの頃は国民学校)で、代用教員を務めていた18歳の少女は、「この校舎に鬼のようなアメリカ兵が押し寄せてきて、皆を食い殺す」と言って教卓に泣き伏した、それが頭に焼き付いている。「先生の予言」はわたしのような子供でさえいぶかしく思えたものだが、「先生」は愛国教育の優等生だったのだろう。Poutine大統領に操られたウクライナの子供の行く末が思いやられるが、国際的な鍔迫り合いの中で、政治がナショナル・アイデンティティを操作する、その先端的な見本がここにあることをわたしたちは肝に銘じなければならない。

「あなたの燃える左手で」(朝比奈秋著)
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 もう一つは意外な取り合わせだが、わたしと同姓の作家、朝比奈秋の小説『あなたの燃える左手で』(河出書房新社)に出会ったことだ。彼は先日三島文学賞を受賞したばかりの新進作家で、これはクリミアがロシアに併合された時期のウクライナを舞台にしたきわめてアクチュアルな作品だが、文学的な価値以前に、そのメッセージの強さに衝撃を受けた。中心人物は、ハンガリーで医療に従事する日本人男性、左手を切断され、別人の左手を移植する手術を受ける。奇想天外な設定だが、加えて、彼の妻はウクライナ人で、それもドンバスで親ロシア派に抗い、プラスティック爆弾を体に巻いて自爆して果てる。平和ボケの日本読者にショックを与えるには十分なストーリーだが、わたしを震撼させたのはそれではなくて、そこかしこに地雷のように埋められた「日本評」であり、日本人に対する警告だった。一例をあげる。ハンガリーの執刀医の独白とされている。

 大陸よりも矮小で、しかし、島国というには長大な、日本列島。小さな領土のふりをして、西ヨーロッパのほとんどの国よりも大きく人口も多い。ぼんやりとした領海に囲まれて国境を知らず、似た者だけで排他的に暮らしながらも、自分たちは心優しい人種と思いこんでいる無知で幼稚な国民…
(148頁)
 ここには海外から日本人がどう見えるか、端的に示されている。わたし自身、海外で暮らすなかで同胞に対し同じ不満にとりつかれたことがあった。作者に共感しつつ、日本人が覚醒することを願わずにはいられない。
 


— 8月号は夏季休暇につきお休みです。次回は9月号になります。 —
 
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