ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第三十八話
Savon de Marseille
(マルセイユ石鹸) の泡立ちは、
地中海文明の手触り
**付属編**

2010.4
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(終編から続く)
マルセイユ石鹸をめぐって、あっちこっちに寄り道しているうちに、ロワール川という水運を擁したナントに、石鹸業が存在しなかったのだろうかと、ふいに疑問が沸いてきた。で、ちょっと調べてみたら、Savonnerie de l'Atlantique (アトランティック石鹸製造) という石鹸業者が、ナント近郊 (ナントに隣接した、ルゼ市) に位置し、60年以上前から石鹸、特に、伝統工程にのっとったマルセイユ石鹸を製造してきたことがわかった。やっぱり石鹸業は、ナントにもあったのである。

マルセイユ石鹸は、すでに、伝統的な製造法を確立していたが、ナントの石鹸業者は、マルセイユ石鹸の専門家の製造技術を取り入れ、且つ、その主成分であるオリーヴ・オイルを、アフリカから持ち込まれたヤシ油やパーム核油によって、代用することによって、大きな変革をもたらした。19世紀に、重要な輸出入の港湾都市として繁栄してきたナントには、奴隷貿易以来の、アフリカとの交易歴もあるし、アフリカ、新大陸から、ヤシ油やパーム核油も入りやすかったのだろう。つまり、このアフリカとの密接な関係が、奴隷貿易禁止 (1807年) と、奴隷解放 (1863年1月1日、リンカーンによる宣言) 以降の近代産業を構築していく時代に、さらに有効に活用され、産業の発展に寄与した、ということであろうか。

ナントは、その立地条件を利用して、プロヴァンス地方に次いで重要な、石鹸製造地域となり、一時は、30もの石鹸製造業者が犇 (ひし) めき、300人以上の従業員を擁していた時期もあったそうである。ロワール河口という、物流には理想的な立地条件と、港湾都市に流れ込む豊富な労働力が、ナントの石鹸産業の急速な発展を促したのだろう。

ナントには、1781年に、すでにSarradin (サラダン) という香水業者があった。18世紀後半になると、その子孫のPaul Emile Sarradin (ポール・エミール・サラダン) が、自分の産業を、香水から石鹸に移行させ、赤ちゃん用の石鹸を、主要な商品とした。

1882年、Alexis BIETTE (アレクシス・ビエット = 1850 - 1915) は、ロウソク工場を買いとった。そこに、石鹸部門を追加し、Croix d'Or (クロワ・ドール = 黄金の十字架) という商品を造り、石鹸市場に参入した。さらに、1896年、新しい石鹸ブランド= Moderne (モダン) を立ち上げた。その主要な商品は、No.810という、スミレの香りの石鹸だった(この810番は、この石鹸会社の電話番号だったそうである)。そして10年後の1906年、このModerne (モダン) ブランドで、香水部門に乗り出した。

この他にも、ナントの沢山の石鹸業者が、石鹸のみならず、クリーム、パウダー、歯磨き粉、香水、オードトワレ、髭剃りクリームなど、多方面の商品に、その活動を広げていった。こうして、ナントの石鹸業界は、マルセイユが握っていた覇権を脅かす存在になっていく。1900年には、ナントでは、年間16,000tの石鹸を生産し、550人もが雇用されており、ロワール河沿いのBas-Chantenay (バ・シャントネイ = シャントネイ下地域 = シャントネイという高台の下に位置する、ロワール沿いの地域) では、10の工場を数えるにいたった。同じ時期、マルセイユには、90もの石鹸業者が軒を並べ、サロン・ド・プロヴァンスでは、マリウス・ファーブルが創業している。この時代、ナントの石鹸業界は、この地方のみならず、フランス全体の経済に、重要な役割を果たしていた。が、ロワールの水運を利用して、次第に、様々な業種が、この地域に工場の建設を始めたために、石鹸業者は、次第に閉鎖に追い込まれてしまう。2度の大戦の狭間で、マルセイユの石鹸業界も、難しい局面にあった時代である。そして、1936年に、Magra (マグラ) という会社が閉鎖したのを最後に、ナントの石鹸工場は、ひとつもなくなってしまった。Savonnerie de L'Atlantique (アトランティック石鹸製造) は、ナントに隣接する市 = Reze (ルゼ) にあるが、ナント地域の石鹸業界史に、大きな足跡を残し、且つ、現在も、マルセイユ石鹸の製法を遵守しながら、工業的規模(年間20,000.-トンを生産する)の生産を続けている、フランス有数の石鹸業者の一つである。

ナント中心街に隣接した、Lamoriciere (ラ・モリシエール) 地区には、石鹸製造に欠かせないソーダの工場があったらしい。この地域からは、10分も歩けばロワール河畔に出るから、ロワール河沿いの石鹸工場に、ソーダを運ぶにも便利である。ロワールから、油脂を陸揚げし、近くからソーダを運び、石鹸製造を開始する。出来上がった石鹸も、ロワールの水運を利用して、すぐに出荷できたのだろう。新大陸の物産を輸入し、ロワール沿いに工場を林立させ、水運による物流を利用して、近代産業市場に乗り出して行った、かつてのナントの姿が、ちょっと歴史を掘り起こすごとに、潤沢に湧き出る水のように現われてくる。この、ロワール川が作った巨大な砂地の三角州は、ロワールの河口に堆積していく砂のように、様々な近代、というものを構築していった、産業の宝庫だったのかもしれない。

そんなことを想いながら、お城 (Chateau d'Anne de Bretagne = ブルターニュ公妃アンヌの城) に近い、ナントの旧市街を歩いていたら、石鹸の量り売りを売り物にしている、新しいお店に出会った。甘い香りのする、girlishな感じの店内は、若い女の子でいっぱいだった。"LUSH (ラッシュ)"というお店。ちょっと原宿・渋谷系のお店で、ナントでは、まだ珍しい感じ。「ついに、ナントにまで、こういう『カワイイ』shopが出来るようになったんだ!」と思いながら、中に入ってみると、スィーツのような、甘―い香りの石鹸や、ボディー・ソープなどが、所狭しと並べられ、しかも量り売りをやっている。入口には、LUSH TIMES (ラッシュ・タイムズ)という広告用新聞が置いてあり、2009年2月のタイトルは、<Vanilissimo ! (究極のバニラ)> だった。

その後、東京の銀座や池袋で、メトロの地下通路を歩いていたら、その"LUSH"があった。もしかしたら、世界展開のお店かな?と、今頃、気が付き、検索してみたら、英国生まれの、フレッシュ・ハンドメイド・コスメだった。世界中に進出し、フランス国内にも10店以上の出店がある。女性は、どこの国でも、どんな経済環境(= リーマン・ブラザーズ崩壊後、世界中を襲った、未曾有の不況下)にあっても、飽くなき美の追求のためには、したたかに消費し続けたいのだろう。かつて、オリーヴ・オイルで出来た、緑色の石鹸を熱望したルイ14世が、この"LUSH"を見たら、どうしただろうか?お店ごと、買い取った?王宮内に、shopが出来るとか…。

王家のブランドとして、そのクオリティーを維持し続け、20世紀、2つの大戦を乗り切り、今も、植物油脂の含有率72%を誇る、クリーミーなマルセイユ石鹸。その贅沢な石鹸以外にも、星の数ほどの石鹸が市場に溢れ、コスメ、エステの部門では、さらにキメ細やかな、機能別の石鹸が沢山あり、生クリームたっぷりのケーキのような石鹸まで、量り売りにして貰える、21世紀の贅沢!太陽王ルイ14世でさえ、想像だに出来ない、究極の贅沢を、今、世が世なら、フランス革命を起していた一般市民や、リンカーンによって解放された、コーヒー色の肌の人達も、大名行列が通るたびに、地面に額を擦りつけていた東洋の町民も、資本主義的市場原理によって、購 (あがな) うことができるのである。この自由であり、平等である、というベースの上に君臨する、民主的贅沢は、ルイ14世でさえ、持っていなかった。地球を暖める太陽のように、絶対的にヨーロッパに君臨した太陽王が、今の私達に、嫉妬したかもしれないのだ。時代の変遷は、面白い。

そして現在、千差万別のオリーヴ・オイルも、いろいろなフレーバーのマルセイユ石鹸も、シュメール文明の結晶のようなアレッポ石鹸まで、ネット・ショッピングで簡単に手に入ってしまう。ちょっと思い立って検索しただけで、その、地球規模的な商品流通の巨大さに驚かされる。オリーヴ植樹を模索していた頃、ネット・ショップのウィンドウ・ショッピング中に、〈オリーブ・オイル・スプレッド〉なるものに遭遇した。それは、ギリシャ、クレタ島のオリーヴで作られた、瓶詰めスプレッドだった。エクストラ・バージン・オイルからなる、この製品は、固形状であるために、開封後の酸化が進みにくく、且つ、すでに固形なので、油脂が固形化する段階での、トランス脂肪酸の発生を防ぐことができる、という、ちょっと画期的な品物だった。オリーヴの苗木と同時期に、このスプレッドを購入してみた。とにかく、マルセイユ石鹸について書くのだから、原木・食品・石鹸という、いろいろな段階でのオリーヴを消費、観察、利用してみようと考えたのである。が、この意欲的なオリーヴとのお付き合いの原動力になっているのは、勿論、私の奥深くに、いつも、碧く、青く沈潜している、地中海文明への、無限の憧憬に他ならない。2003年に、初めて、ニース・コート・ダ・ジュール空港に降り立った、その時から、私の感性の弦は、南仏の、美しきパステル・カラーを演奏する、透明感あるコード (= 和音) 進行用に調弦されてしまったのである。

今年 (= 2009年) の1月、コート・ダ・ジュールを訪れて以来、私は、あの繊細なパステル・カラーの連なりを想い続けてきた。ヨーロッパの街々が、鉛を流したような、モノクロな重さに耐えている、長い永い冬という季節にも、地中海のブルーは、奔放に、柔らかい陽光と戯れている。そして、きらきらと笑い、無数のファセット (ファセット・カット = 宝石加工技術の一つ) を施されたアクア・マリン (**) のように反射しながら、透明な空気の粒子と遊んでいる。その無限のグラデーションに恋をした美しきリヴィエラは、いつもスタイリッシュで、いつでもフォトジェニックである。2009年という年も、もう随分暮れなずんできた、今日このごろ、私達は、再び、心象風景のパレットを、柑橘類のようにジューシーな≪太陽でいっぱい≫にしたい、と思うようになっていた。

(avril 2010)

地中海は アクアマリンを 溶かしこみ
リヴィエラの冬に レモン弾(はじ)ける
カモメ詠

アクア・マリン
「海の水」というラテン語名で、透き通ったブルーが魅力。中世ヨーロッパの船乗りの間では、海の女神の化身として、 航海のお守りにされていた。深い海の底に住む妖精が、そっと漏らした溜息の泡、あるいは、海の妖精の宝物が、浜へ打ち上げられて、宝石になった、という伝説のある石。碧い海を透き通った石に閉じ込めたような色調で、月の女神ディアナの石とも言われている。古代エジプトの王家の墓からも、数珠状に加工されたアクア・マリンが、数多く発見されたそうである。

ロワール川周辺に集中していた、工場地域の地図。ロワールを挟んで向かい合う、アトランティック石鹸工場と、ボネ石鹸・油脂工場に隣接している、赤い丸印は、酢酸、カーボン紙などの、化学製品の工場である。
(クリックで拡大します)





ナントの中心街に開店したばかりの、石鹸shop"LUSH"。





"LUSH"の新聞、LUSH TIMES。すっごくGirlishで、かなり日本の若い女性的なお店。





こちらは、東京・銀座の地下道にあるLUSH。世界的チェーン店なのに、ナントのお店とは趣が違う。何でも、きれいに、ソツなく、まとまっている日本のお店に比べると、ナント店の店構えは、ちょっと野生的に見えてくる。言葉を変えると、ガサツでさえもあるが、この雰囲気がヨーロッパの街景の中では、シワ加工のブルゾンみたいに、カッコイイのかもしれない。




オリーヴ・オイル・スプレッド。ちょっと塩味の効いたバケットをトーストして、サッと塗ると美味しいスプレッド。爽やかなオリーヴ色で、地中海の太陽を食べている感じ。




真冬でも、地中海は、これほど碧く、海岸線は、これほど輝いている。「ウーン!また。行きたい。」と言うより、「また、帰りたい。」と言ってみたい。






イタリア人の大好きな、FIAT500。昨年、同じ名前の新車が出て、長い間、小さな小さなFIAT500に乗り続けてきた人達が、やっと乗り換え始めたらしい。で、今年は、随分、イタリアで、この新型FIAT500に出会ったが、このVentimiglia (ヴェンティミリア = フランスに最も近い、地中海沿岸の街)では、ドライヴィング・スクールの車も、FIAT500だった。この写真では、ボディーが赤いのが旧モデル、白いのが新モデル。この、ホッコリと可愛い形が地中海沿岸を走る陽光溢れる道に、ホントによく似合うのである。





1年中、ソフトな陽光に包まれている、レモンの街 = マントンでは、道端に並べられているショッピング・カートも、こんなに色鮮やかで、こんなに絵になっている。パリとか、フランスのあちこちで売られていた、<BIG SHOPPER>なんていう大きなカバンとは、随分違う。この辺で、くすんだ色のカートなんぞを引きずっていたら、ダサくてどうしようもないのかもしれないし、これほど、美しい環境の中を歩いていたら、誰も、そんなものを引っぱりたいとは思わないだろう。人間というのは、その環境に似合うように、知らないうちに影響されていくのかも知れない。だとしたら、自分の周囲に、できるだけ美しい環境を構築しなくては…。

アクセス
ナントへのアクセス
Paris − Montparnasse 駅(パリーモンパルナス)から、TGV、Le Croisic(ル・クロワジック)方面行きで約2時間。Nantes(ナント)駅に到着する。駅から、Tramway (路面電車)1番線、Beaujoire(ボージョワール)方面行きに乗れば、3つめで、ナント中心街に着く。同じ線の、Francois MITTERAND(フランソワ・ミッテラン)行きに乗って、3-4停留所で、ロワール川沿いの、旧化学工業地帯に着く。古い大きな倉庫、古い造船所跡などで、その面影が窺える。

コート・ダ・ジュールへのアクセス
Parisから、国内線で、Nice−Cote d'Azur(ニース・コート・ダ・ジュール)空港へ。空港から、レンタカー、あるいは、ニース市内までリムジンバスに乗り、ニース駅から、国鉄を利用する。Menton(マントン)は、一番、イタリアに近い街。マントンの旧市街を抜けて、海沿いに走っていくと、 (イタリアまで 1000m)の標識が立っている。ニースからイタリア国境まで、100kmほど。ニースから西に100kmほどで、Cannes(カンヌ)まで。ニース = マントン間の、ほぼ中間地点にMonaco(モナコ)が位置している。モナコは、全長3kmほどの国だから、レンタカーを借りれば、このあたり一帯の海岸沿いを、風光を楽しみながら、行ったり来たりできやすい地方である。食事の秘訣は、イタリアに近づけば近づくほど、お値段もリーズナブルで、味が美味しくなる !! というポイント。マントンまで来たら、是非、ちょっと向こうのイタリアまで、パニーニや、ピザを食べに、足を伸ばそう!

銀翼のカモメさんは、フラメンコ音楽情報サイト「アクースティカ」でもエッセイ連載中
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