朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
メカニック 2010.4エッセイ・リストbacknext

Virginieを背負って急流を渡るPaul

 『ポールとヴィルジニー』Paul et Virginie(1787)といえば、南海の孤島を舞台にした純愛物語を思い浮かべる。むろんその通りで、それなればこそ一部の酷評を尻目に、2世紀を超える年月を生きのびたのだろう。けれど、他方で、イギリスの『ロビンソン・クルーソー』The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe(1719)と同系列の作品、つまり、未開の自然環境との格闘を描くことで、対照的なヨーロッパ文明の爛熟と脆弱さを浮き彫りにする作品でもあることを見逃すまい。
 この特徴が明らかな箇所として、たとえば、パリに暮らす貴族の伯母によび寄せられて島を去ったヴィルジニーを追いフランスに渡ろうと焦るポールと、文明社会に絶望して祖国を捨て離島での隠棲を選んだ老人との対話をあげることができる。相談をうけた老人は逸る若者を引きとめようとして、naissance「家柄」とrichesses「財産」という条件が整わなければ、ヨーロッパでは結婚できないという。百姓娘の私生児にすぎないポールは第一の条件については一言もないが、第二の条件には納得がいかず、反論する。
PAUL :Mais qu'est-il besoin d'être riche pour se marier?
「それにしても、結婚するのにどうして金持ちである必要があるんですか?」
LE VIEILLARD: Afin de passer ses jours dans l'abondance sans rien faire.
「何もせず裕福に暮らすためさ」
PAUL:Et pourquoi ne pas travailler ? Je travaille bien, moi.
「でもなぜ働かないんです。せっせと働きますよ、ぼくは」
LE VIEILLARD : C'est qu'en Europe le travail des mains déshonore. On l'appelle travail mécanique. Celui même de labourer la terre y est le plus méprisé de tous. Un artisan y est bien plus estimé qu'un paysan.
「それは、ヨーロッパでは手を使う仕事が不名誉なこととされているからだ。それはメカニックな仕事と呼ばれる。土を耕す仕事などは何よりも蔑視されている。向こうでは職人のほうが農民よりははるかに尊敬されているのだよ」
PAUL : Quoi ! l'art qui nourrit les hommes est méprisé en Europe ! Je ne vous comprends pas.
「何ですって、人を養う技術がヨーロッパでは軽蔑されているんですって!おっしゃることが理解できませんね」
 恋愛小説という先入観を離れて作者Bernardin de Saint-Pierre(1737~1814)の生涯に目を転ずれば、ingénieur-géographe「地図の製図技師」として舞台のフランス島l'île de France(現在のîle Maurice, [英]Mauritius)に滞在した経験をもっている。しかも、自然を文明に対峙させ、その価値の高さを訴えたJean-Jacques Rousseau(1712~1778)の影響を強く受けた。上の対話の背景にはそんな事情がからんでいようが、老若二人の考え方を隔てる溝は深く、埋まりそうにない。これはそのまま、2年後に大革命が待っているとも知らず旧体制の特権の上に胡坐をかいているフランス貴族たちへの作者の憤怒の反映なのだろう。そう見るかぎり、甘美な恋心の芽生えが一転して悲劇に終わるというストーリー展開は、奥底にわだかまる作者の怨念を隠す仮装にすぎないとさえ思えてくる。
 その点の詮索はともかく、ここで問題にしたいのは、引用文中のゴチック体の部分である。とりあえずmécaniqueを「メカニック」としたのは、訳に窮したからだ。
 むろん仏和辞典に訳語は並んでいて「(1)機械で動く、機械による、機械の。(2)(しぐさが)機械的な、無意識の。(3)力学の、力学的な」(現代フランス語辞典)とある。英語のmechanicalに対応するフランス語なのだから、machine「機械」に関係する形容詞とされるのは当然だが、それでは上の文脈にそぐわない。日本語には「メカ」という独自の短縮語があり、「あの人はメカに強い」などという。「機械の操作に通じている」の意味で、あきらかに褒め言葉だろう。ところが、上の老人の言い方はその逆としか思えない。
 疑問はRobertのLe Dictionnaire historiqueを参照しているうちに晴れた。
 目をうたがいたくなるが、古くはmanuel「手の」を意味する形容詞だったのだ!それで、道具を用いたり手を動かしたりする職業をさしてmestiers mécaniques「手をつかう職」と言った。その結果、arts mécaniques「手工芸」とarts libéraux「(医者、学者などの)自由業;(教育での)自由学芸、自由科目」とを対立させる認識が生まれた。余談だが、後者は第二次大戦後の日本で新制大学のカリキュラムに取り入れられた「一般教育科目」いわゆる「教養科目」の起源に当たる。今の日本の学生はともすれば「教養科目」を「専門科目」の格下とみなし軽視して憚らないが、もともとarts libérauxはarts mécaniquesの上位に位置づけられていたことを知ったら、何というだろう。それはともかく、13世紀にはmécaniqueはそのまま名詞化されて、un ouvrier manuel artisan「手を使う労働者・職人」をさすようになり、しばしばservile「下僕のような、盲従的で独創性のない」という軽蔑的なconnotation「暗示的な意味」を伴うようになった。上記のtravail mécaniqueはまさにこれに当たる。蔑称のニュアンスが濃いことが裏付けられたわけで、それを訳語ににじませれば「能のない下賤な仕事」といったことになろうか。
 もう一つ驚いたのは、わたしたちはすぐに「機械」や「力学」に結びつけるが、そのような語義が生まれたのはルネサンス時代以降にすぎないということだ。その時代になって、ラテン語のmechanicaがフランス語にあらためて取りこまれ、その際にギリシア語のmêkhanikê「機械を作る<技術>」の意味を含ませることになったもののようだ。つまり、「機械」や「力学」という語義との関連は、前記の仏和辞典が示すように、今でこそ一般化しているものの、歴史的に見れば、あくまでも後から加わったものにとどまる。いってみれば、この語の方が「機械」や「力学」という<モノ>よりもずっと古いのだ。

レンズ豆

 当然だが、<モノ>と<コトバ>との関係は歴史に左右される。類例としてlentilleの場合をあげよう。仏和辞典の上では「レンズ;レンズ豆」の順になるが、フランス語ではまず旧約聖書にも登場する植物・食材をさす語だった。「レンズ」が発明された時に、Descartesはそれを指示しようとしてverre en forme de lentille「~豆の形をしたガラス」と書くしかなかった。この「~豆」を「レンズ豆」とするのでは比喩にならない。
 
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