朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
se promenerの周りを散歩
2007.02エッセイ・リストbacknext
 カルチャーセンターの授業のあと、生徒さんたちと新宿駅西口近くのビストロで夕食をとる。毎週のことなので、店主とすっかり馴染みになった。そのせいばかりではあるまいが、主人(まもなく還暦をむかえるという)がフランス語の勉強に精をだすようになり、ヒマを見ては質問をしかけてくる。大体が基礎的な問題で、生徒さんの誰かがわたしの代わりに回答してすむことが多い。ところが、先日彼はレッスンの際に代名動詞のことで苦しめられたらしく、「なんでまたJe me promèneなんて面倒な言いかたをするんですかね」と挑みかかってきた。こういう一見もっともなようだが、実は子どもじみた質問には、生徒さんはおろか、わたしでも即答はむずかしい。
  それにつけて思い起こすのは、初級コースの授業を担当していて苦労した事項のひとつが代名動詞だったことだ。学生たちへの説明に窮して、英語を引き合いに出し、to kill oneself というのと同じ理屈で、se tuerというのだ、ただし英語とはちがって、それが一般化し、原則的にはすべての他動詞に再帰代名詞を組み合わせ、個々の他動詞に対応した代名動詞を作ることができる(別にs’en allerのように本来的な代名動詞もあるが)と説いたものだった。しかし、近頃のように小中学生までが「自殺」に走るご時世になれば、いくら文法のためとはいっても適切な例ではありえない。それに、そもそもフランス語学習者の意欲も理解力も年々減退してきて、1週1回で初級仏語を学ぶクラスでは、うっかりすると代名動詞の課まで進まぬうちに1学年が終わってしまうことさえもあった。若者相手の大学でさえこの体たらくだとすれば、文字通り六十の手習いをはじめた店主が「面倒な」というのも無理はないのである。
 わたしはやおら「フランス語は行為をする側とその行為を受ける側のちがいに敏感なのだ」と店主にいった。「今の例でいえば、まずpromener<散歩させる>という他動詞があり、promener un chien, のように使う。人が<する>側、犬が<される>側だ。それが再帰代名詞とセットになってse promenerになると、seは主語と同じだから、<する>側と<される>側が重なることになる。それが<散歩する>になるわけだ」 これを聞いて、相手は目をまるくして引き下がったが、なにもわたしは人のいい店主を煙にまこうとしたわけではない。たまたまデカルトの話をする必要があって、『情念論』 Passions de l‘âmeを読んでいたのだが、冒頭から「ある主体sujetに関して受動passionであるものは、他のある主体に関してはつねに能動actionであること」という二極対立で分析が進んでいくことに目を奪われた矢先だったからである。

René DESCARTES(1596-1650)
  ここでデカルトに深入りするつもりもないし、いわれもなかろう。ただ留意する必要があるのは、彼が「悲しみ」や「喜び」のような情念の正体をつきとめる時に、得体の知れぬ「魂」âmeの働きとする(これがデカルト以前の通念だったとみてよい)のではなく、「身体」corpsが装置として機能し、「精神」âmeに働きかけるとする視点に立ったことだ。いわば人間の精神活動の少なくとも一部を機械論的に説明する道を開いたことになる。近頃のテレビ番組などで、たとえば脳をはじめとする体の一部の血圧や体温の変化を機械で測定し、そこで得られた数値を喜怒哀楽など感情の強弱と結びつけ、これで人間機械のメカニズムが解明されたとする手法が定着していることを想起しよう。わたしたちは科学の名のもとに何の疑いもなくそれを受け入れているが、そういう人間理解はデカルトに端を発する。しかも、この革命的な発想転換が受動/能動、「する」/「される」という捉えかたから生まれたことを銘記すべきだろう。
 その一方で念のために付け加えるが、こうして身体の機能を機械のようにとらえたデカルト的な考え方が当時から誤解を生み、たとえば犬・猫は機械であって「精神」を欠いているのだから、彼らを叩いたり殺したりしても構わないという風潮を助長したことを忘れまい。デカルトはあくまでも精神と身体という二元論の立場を崩さなかった。だから、情念を生み出す身体の「能動」性を明らかにする一方で、精神は情念の圧力に「受動」的に従うのではなく、理性的に工夫してそれを制御すべきことを力説した。情念の発生メカニズムを説いた『情念論』は同時に道徳論だったことを忘れてはなるまい。人間が平然として人間の体を切り刻むというニュースに接するにつけ、浅薄なデカルト理解をしりぞけなければならぬことを痛感する。彼は人間の尊厳を重んじ、しかも神の絶対性を信じつづけた人だった。
  代名動詞の話がとんだ方面に飛んで、読者も目をまるくしていることだろう。話題をかえるかわり、se promenerが出たついでに、これに対応する英語を考えてみよう。試しにOxford-Hachetteの仏英・英仏辞典をひくと、代名動詞が出てこないことはもちろんだが、それ以外に、「散歩する」という日本語との対応関係には微妙な食いちがいがあることを教えてくれる。

se promenerの項のイラスト
Larousse
Dictionnaire français langue étrangère,
Niveau 2
se promenerの項がまず(pour se distraire)「気晴らしに」という断りではじまっていることが目をひく。「散歩」とはまさにそういう行為だが、se promenerの前提としてあらかじめその点を強調しておく必要があるということなのだろう。その後の語義の展開を示す説明も興味深い。(数字は説明の便宜上、朝比奈が付加したもの)
 ①(à pied)to go for a walk ; ②(en voiture)to go for a drive;③(en bateau)to go out in a boat ;④(à bicyclette, à cheval)to go for a ride
 要するに、「散歩する」にあたるのは①だけで、以下は日本語の「散歩」からはずれている。②は「ドライヴする」、③は「舟遊びする」、④は「サイクリングする、乗馬する」とでも訳さないと、原意を汲んだことにならない。言いかえれば、「散歩する」という語義はse promenerの意味範囲のごく一部にすぎないことになる。ここまで来て、あらためて上記の「気晴らしに」という注記の重要性がはっきりする。つまり、この語の中軸は日本語から思いつく「歩く」ことにはなく、「その辺を気晴らしに動きまわる」ことにあり、その場合の手段はけっして「足」にかぎらないことに注意しなくてはならない。
 もっとも、白水社ラルース仏和辞典によれば、②以下の場合は一般にen voitureのような手段が明示されるというし、上記の仏英・英仏辞典にはI enjoy walking. に対応する仏文がJ'aime me promener.と出ていることが一応の安心材料になるが、se promenerに行きあった時、一義的に「散歩する」に結び付けることには慎重でありたいものだ。
 ついでに、英語のto walkはフランス語でどう説明されているか、同辞典をひいておく。
(in general) 「一般的に」marcher ; (for pleasure) 「娯楽として」 se promener ; (not run) 「走らずに」aller au pas ; (not ride or drive) 「馬や車に乗らずに」 aller à pied
  この説明からもse promenerの出発点はやはり「散歩する」(この意味ではfaire une promenadeもある)であることが再確認できて、わたしの「散歩」も一段落というところだ。
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